田祭り復活の軌跡
田祭り復活の軌跡
昭和25、26年の頃、鶴見神社境内には鎌倉将軍源頼経の手植えと伝えられる欅の大木が健在であった。
その欅の下の日溜まりで、お宮の近くに住む関口政吉老人に、政吉老人が見たことや聞いた話を幾度か聞かせてもらった。その話の中で一番興味をひいたのは、お宮についての話であった。
昔はお宮の境内は広く、五千坪ぐらいあったということである。それが明治五年、鉄道が敷かれることとなり、その大半を接収されて現在の大きさになってしまった。社は漆塗りで龍の彫り物があり、夕日を浴びて目は金色に光り輝き、子供心に恐怖を覚えたという。その社も岡蒸気の火の粉を受けて、明治33年1月11日炎上消失してしまった。その折、鶴見川天王河岸(現潮見橋付近)に流れ着き、神社へ納められたと伝えられる大神輿は、社殿より村人たちによって運び出され類焼をまぬがれた。また大東亜戦争の戦火もまぬがれたのは幸いであった。この御神輿が氏子へ渡御される年は、氏子に火災が起こらず火伏の神輿とも伝えられている。
そして昔は「ネエレンマツリ」と呼ばれる祭りがあった。その祭りは年の始めに執り行われ、稲の豊作を祈る農耕の祭りである。祭りの中で早乙女を演じ奉仕するのは、前年村に嫁いできた嫁であった。しがらき茶屋平野弥市(通称預かり弥市)の嫁や関口老人の祖母も務めたという。私はその話を聞いてさらに田遊びのことを知りたい、調べたいと思っていた。たまたまその翌年、新聞記事で東京都板橋区の赤塚と徳丸で田遊びが日曜日の昼間行われるということを知った。当日、私は駅から続く麦畑の道を歩いて赤塚の諏訪神社に行った。
そこで出会ったのが、東京国立文化財研究所の芸能調査に来ておられた先輩の三隈治雄氏であった。
「昔、鶴見神社にも田遊びがあって、今は絶えていますが、できれば将来復活したいと思って見学に来たのです」
「ほう、復活できるといいですね」
こんな挨拶を交わしたあと、赤塚の勇壮で動きの激しい祭りと、同地帯でありながら対照的で素朴な徳丸・北野神社の祭りを心はずませて見学した。
その日、土地の古老から、徳丸の田遊びは横浜の鶴見から伝えられたという話を聞き、田遊びに知識のない私にも、その話に感動と興奮を覚えたのを印象的に記憶している。そして、いつの日か復活できればという淡い希望を抱いて帰路についた。
その後、暇をみては資料探しに旧鶴見村の旧家を訪ねては古文書を求めてみたが、明治44年の鶴見村をことごとく焼き尽くした鶴見の大火で炎上してしまったということで、何の資料も見つけることはできなかった。唯一その大火からまぬがれた名主佐久間家の土蔵の虫干しの折、庭に広げられた数多くの古文書を一日かけて拝見する機会を得た。しかし、その中から見つけたのは、田遊びの歌詞「杉山大明神神寿歌」を綴る一冊だけであった。
いつしかこの資料集めのことも忘れ去っていた。
昭和44年、父のあとを継いで鶴見神社の宮司に就任した。その頃、二十余年にわたり鶴見神社の清掃奉仕を続けてくれた作間勝蔵氏から、しばし昔話を聞くことができた。
そんな折、九州の長崎に住む鶴見神社三代宮司黒川荘三翁の孫娘に当たる麻生さんにお目にかかることができた。その時、黒川翁が書き残した『千草』という本が存在するということを知ることができた。しかし、その所在については麻生さんもご存じなく、大阪の高槻にお住いの黒川宗進氏(黒川荘三翁の孫養子)を訪ねたらとすすめられた。その後、麻生さんご自身で持っていた何枚かの拓本を送ってくださった。それは、戦災で失われた旧東海道鶴見川際に黒川荘三翁によって建立された鶴見橋関門旧跡の碑の拓本であった。この拓本を元に鶴見川畔(旧三家)にお住いの吉田徳松氏が自費で再建されたのは周知のとおりである。
昭和46年頃から『千草』を探すため、大阪の高槻へ何度か足を運んだ。黒川氏も古いことなので記憶がなかった。しかし、黒川氏が墓参で鶴見の天王院まで来られると神社へも寄られ、『千草』の話は続いた。昭和50年ごろであった。黒川氏から電話があり、物置の片付けをしていたら茶箱が出てきて、その中に古いものがあるという。早速、大阪まで出かけてみると、茶箱の中に鶴見の古い写真とともに『千草』を発見することができた。しかし、
祖父の記録なので、保存しておきたい……。
ならば貸してほしい……。
以来、回を重ねて交渉の末、黒川氏のご厚意に甘えて茶箱ごと頂戴することができた。『千草』の中には私が長年探し求めていた「田遊び」関係のほかに鶴見に関することがいろいろと書き連ねてあった。
昭和58年、鶴見歴史の会の総会が鶴見神社で開かれた折、この『千草』を基に田遊び復活の研究を歴史の会にお願いした。
当時の大熊会長は快く協力を約し、研究のための分科会を置き、復活の歩みは開始された。会員の熱意と努力によって解読と演技の振り付けなどが着々と進んだ。しかし、記録だけで誰も見たことのない祭りの復元は種々難問が山積した。
そのころ、昔、板橋で会った三隈治雄氏は東京国立文化財研究所の芸能部長として、また民俗芸能の第一人者として活躍されていた。その三隈氏の力を借りることにして電話を入れた。
「しばらくでした。今、田遊び復活の研究をしているのですが、解らない部分が多いので先生のご助言をお願いしたいのですが…」
「ほう、それは結構ですね、ぜひ伺ってお手伝いをいたしますよ」
隠して三隈氏に幾度か鶴見まで足を運んでいただき、ご助言を受けることができた。
古老の話をきっかけとして他所の田遊びの見学、『千草』全8巻を唯一の文献資料として数年にわたる考証と、「鶴見の田祭り」復活再興のため情熱をかけてきた。
その多年の夢も見事かなって、明治4年を最後に廃絶して以来150年ぶりに昭和62年4月5日、鶴見神社に再興奉納された。ここに至ることができたのは、まさに神の加護であったと思う。そして、一番喜んでおられるのは、千古の歴史と共に鶴見の里に鎮まりまします横浜最古の神・旧杉山大明神(現鶴見神社)の神様であることを確信する。
いま、子供の頃を想い出すと、晩夏の夕暮れ茜雲の中に、空一面に覆いつくすほどに飛び群れるトンボ、鶴見川畔に広がる芦原、鋭く鳴き騒ぐカラス、沼地にはザリガニ、カニ、カエルなど、そこには故郷があった。その故郷のおもかげも、年々歳々早いテンポで一つまた一つと消滅していく。町にはビルが立ち並び、砂利道はアスファルトで舗装され、川岸は護岸ということでコンクリートで固められ、川には小魚も川エビもヤゴも棲みにくくなってしまった。
鶴見に生まれ育つ人々が、いつまでも鶴見をわが故郷として、心のやすらぐよりどころとしてほしい。その故郷に再生した田祭りが、地域の人々の手によって受け継がれていくことを心から願ってやまない。
鶴見神社宮司 金子元重
(黒川荘三著『千草』「発刊に際して」から転載)